家主のいない沢田マンションの一室にとこちゃんと二人で仲睦まじく宿泊して、翌朝9:00。
新郎新婦他数名と、高知観光。
まずは、「元」沢田マンション住人となった新郎新婦の案内で、沢田マンション散策。
スロープを登る。
このスロープを使って、5階まで車で上がれる。
通常は、住人の方々が、自室まで自転車で移動するのに使ってる様子。
そのあたりが、「どの階も地上にいるような感じ」になってて素敵。
すると、池がある。
当初、プールの予定だったけど、池に変更になったらしい。
一緒にまわった人たちは、建築やランドスケープのプロの人で、みな構造やら仕組みに興味津々。
「これ、何で支えてんの?」
「この薄さ、どうなってんの?」
「あ、分かった、ここ見て! ほら、ここからこうなって…」
「おー、考えたねえ」
とか。
はたで聞いてて、すげえ面白い。
これが「エレベータ」。
「部屋」くらいの広さがある。
これで下に降りることに。
ひとりが「沢田マンションの外観の要って、やっぱりこの花壇だね」と。
確かに。
全ての手すりに花壇が付け加えられたことで、「団地っぽさ」がなくなって、独自の外観ができてる。
当然、そこに植えられた緑も、いい。
あと、この真っ白っぷりもいい。
繰り返しになるけど、沢田マンション、ちっとも「けったいな建築物」じゃなかった。
「計算しつくられた設計」というのとは違うのだけど、なんていうんだろう、「ここはこうしたい」みたいなのはいっぱいあって、その多くは「あとづけ」っぽいのだけど、それがつまりマンションなのに路地っぽさを作り出してて。
「全然考えてねえだろ」って云われると、そうじゃなくてすごくいろいろ考えてるはずで、「これ、すごく考えて作ったんだよね」って云われると、「そんなん全然考えてねえって・笑」って感じで、でも住む場所って、そういうもののような気がすごくして。
それだ。
アタシが今回実際に沢田マンションを見て感動したのって、そこんところなのかも。
住む場所って、これくらい、ある意味いい加減で、イージーな方がいい気がする。
アタシが「部屋の中の土間」を希望するのも、そんな感じなのかも。
昔よく、『建もの探訪』とか見ながら「自分で家を設計するとしたら」って夢想したりしてたんだけど、でも具体的に考え出すとなんだかそれがとても「恥ずかしい」というのがあって。
「効率」とか「理由」とか「便利」とか、そういったものを元に設計するわけで、それを実際に具現化すると、なんだかそのまま過ぎて気恥ずかしくて、そしてつまらない。
意図が見え過ぎる、というか。
がっちり計算したバリアフリーの家より、生活に適さないように見える荒川修作の奇抜な家の方が、実際はいいのかも、っていうのはよく思う。
荒川修作のデザインは行き過ぎだ、という場合、じゃあこの沢田マンションは、となると、アタシにはなんだかベストに思えてくる。
とにかく、「なんだかよく分からない家」の方が、人間が元気になる気がする。
どこかのモデルルームを見に行って、そこであれこれ説明されて、すごく便利そうに思える家があったとして、でもなんか、実際に住んだら、すごくつまらなさそう。
だとしたら、住居の設計って、本当に難しいな。
なんてことを考えさせられたりした、というか、元々考えてたことの、ひとつの答えみたいなものを提示された、沢田マンション探訪でございました。
住みてえ。
つづく。
→こらない - 高知4〜日曜市、ひろめ市場、高知城
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