2005-02-09 (水)
『腰痛放浪記 椅子がこわい / 夏樹静子』読了
『腰痛放浪記 椅子がこわい / 夏樹静子』読了。
これ、アタシにとってちょっと特別な本になりそうだ、と思った。
前半1/3を読んだところまでのメモは、こらない:『腰痛放浪記 椅子がこわい / 夏樹静子』へ。
整形外科に始まり、鍼灸、カイロプラクティック、マッサージ、足裏、低周波、野菜ジュール…と耳にした療法を全て試しつつも、一向に快方に向かわない「死にたいほどの腰痛」。
出てきてないのは歯医者と目医者、あと漢方だな、と思いながら読み進めていくと、歯医者以外はちゃんと出てきた(でも治らない)。
さらに著者は、霊能者の助言により供養を行なったり、肛門に指を入れて尾てい骨を持ち上げられたりしつつ、誰かから聞いた「400錠あれば死ねる」という言葉を頼りに睡眠剤を貯め始めるのでした。
ここで前半終了。
後半、その腰痛とのさよならに成功するまでが書かれているのだけど、ここまでの前半を書いたのはまだ何の光も見いだせない時のことだということ。
そして後半、結局著者は心療内科へかかることによって完治するのでした。
「そっかー、心が原因だったのかー」と認めてヒョイと治るわけではない。
例えば今あなたが花粉症で目から鼻からぐじゅぐじゅになっていて、ほんとにほんとにほんとに辛いとする。
そんな時、「それは心が原因ですよ」と言われたとしたらどうだろう?
俄(にわか)に信じ難い、というのもあるのだけど、「心が原因」というのを認めるのは、つまりこれまでのこの痛みは「仮病」だということになる。
子どもが学校に行きたくなくてほんとにお腹が痛くなる、あれと同じだということになる。
XX歳にもなって、そんなことはおいそれと認めるわけにはいかない。
「自分はそこそこ理知的に考えることができ、またストレスをためないようにそこそこ人生を楽しく生きていく術だって知っているつもり」と思っていれば、尚のこと受け入れ難い。
俺のことじゃないか。
そう思いたって以降、半ページ読むたびに頭の中で自分の「自伝」を書き始めてしまい、ちっとも先へ読み進められなくなってしまった。
あの時こんなことがあった、あの時こんなことを言われた、その時アタシはこう思った、あれだけは許せない…云々。
そんなことをつらつら思いながら、先を読んでいくうちに、ちょっと自分が勘違いしていることがあるのが分かった。
「心が原因」というのは、その原因を取り除かなくちゃいけないのだと思っていた。
例えば幼児期のトラウマがあるとするなら、それと正面から向き合うとか、そんなこと。
そんなドラマやらドキュメンタリーをよく見る気がする。
そういう面ももちろんあるし大きいと思うのだけど、まず行なうのは「痛みと向き合う」ことなのでした。
あちこち、泣くようなところでおいおいと泣きつつ、思い当たる節をいくつも思い浮かべつつ読了。
それだけいろいろと思い当たりながらも、しかしそのひとつひとつに頭が反証を用意する。
「それは昔試したじゃないか」
「そんなわけあるわけないじゃないか」
「今のままだって、薬でコントロールして、そこそこ普通に生活できてるじゃないか」
なんだかとんでもない不治の病を抱えた人が書いてるみたい・笑。
ただの片頭痛なんですけどね。
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