2004-05-27 (木)
本『アンチ・ハウス / 森博嗣, 阿竹克人』
建築関係本2冊目として読んでいる『アンチ・ハウス』を半分あたりまで読む。
ミステリー作家の森博嗣氏が、自分用の工作室としてのガレージを建てるまでのドキュメンタリ(?)。
立ち読みで読んで、グッと心を掴まれてしまったのが、冒頭の文章の中の以下の会話文。
建築学科の教官でもある著者の森博嗣氏が、「学生が皆同じことばかり言う」というその内容を分かりやすくまとめたもの。
「どんな家を建てたい?」
「木の温もりを感じられる住宅を自分の手で造っていきたいと思います」
「それならば、大工さんになればいいね」
「いえ、そういう意味ではなくて、その、そういう家を設計したいのです」
「木の温もりって何? 木のどんな性質のこと?」
「性質? いえ、温もりは人間が感じるものです」
「どうやって感じるの? 物理的な性質でなければ、感じられないよ。比熱? 密度? それとも熱伝導率? 膨張係数?」
「そういう数字には表れない、温かみだと思います」
「では、表面の色や模様のことかな?」
「いいえ、もっと健康に良い、木の本来の魅力みたいな」
「実体がないものを望んでいるようだね、それでは、まるで幽霊屋敷だ」
「でも、現代は、そういうフィーリングが求められていると思うんです」
「うん、それはあるかも知れない。いわゆる、気のせいってやつだね。しかし、エンジニアとして、そういった迷信を追い求めることは問題だと思うな。まあ、百歩譲って、仮に、その、木に温もりとやらが存在するとしよう。では、どうして、温もりが必要なの? 温もりはどうして良いものなの? 人間に何をもたらすのかな?」
「えっと…」
なんだか痛快。
ただこれはアタシにとって「掴み」で、実際に読んでみようと思ったのは、
住宅特集の雑誌、あるいは住宅を紹介するTV番組を見ていると、窓を大きくして光を沢山採り入れる、どこもかしこも収納にして、からくり的工夫をする、そして、段差のない床、あるいは段差だけがある小さな座敷、そういうのもが、すべて絶対的な「善」として当然のように語られている。まるでそれらが、「ハウス」として備えなければならない条件だと人々に印象づける。これはつまり、一種の洗脳に近い。
という部分かな。
アタシは自身の片頭痛と関連して、光が苦手。
頭痛時には、ビデオの時刻表示の小さな明かりでさえまぶしい。
あと、太陽光がふり注ぐと、本やらCDやらいろんななものが陽焼けする。
けど、そう思いながらも、南向きで陽のよく入ることが第一条件だと思ってきた。
洗脳のせい、かな。
ここに書かれていないものでアタシが首をかしげているのは、風呂とトイレ(あるいは風呂と洗面所、風呂と脱衣所)を隔てる壁がガラス張り、というもの。
あと、風呂と坪庭みたいなものがつながっているもの。
流行ってるのか、皆が認める何らかの価値があるのか知らないけど、そうなってるのをよく見る。
これほんとにアタシには意図が掴めなくて、もう2〜3年前からずっと気になってる。
上記の文章は次のように続く。
確かに、平均的にはそうかもしれない。しかし、家とは、住宅とは、そもそも、そこに住む人間のものだ。社会的なものではなく、極めて個人的なものである。外観はともかく、室内は街と調和する必要もなく、他人の価値観を採り込む必要もない。そこで生活する主が、自分の目と自分の感覚で、自分の場を評価できれば、それで良い。それがすべてだ。
もひとつ、
是非、一言だけいいたい、「住みやすい」ことが、「住みたい」ことだと、みんな勘違いしているのだ。
というわけで、冒頭のあいさつ文が終わると、あとは「お施主」である森博嗣氏と、設計の阿竹克人氏のメールのやり取りをまとめたものが延々と続く。
「延々と続く」というのは、山場もなくダラダラと続く、といったニュアンスがあり、そうなるんじゃないかな?と想像していたのだけど、意外と(?)そうでもなかった。
「景観」に絡む法律で名古屋市と対決したり、「やっとゴーサイン!」というところで森さんが「その金額では納得できない」と言い出したり。
あとひとつ。
これは森氏自身あちこちで言っていること、と文中にあったのでおなじみなのかも知れないけど、森さんはミステリー小説がヒットしたおかげで儲けたお金で「どれ、道楽にガレージでも建ててみるか」となったわけではない、らしい。
小さい頃から自分のガレージが欲しくて欲しくて、それを実現する資金を作るためにビジネスで小説を書いた、と。
ちょっと、沢田マンションを思い出した。
読了時のコメントは、コル:本『アンチ・ハウス / 森博嗣, 阿竹克人』2へ。
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