天野天街エッセイ「お茶の来るまで」

MEMO

チキユゴマの様に

 送電線の中をスゴイスピードでウグイスの鳴き声が走り回り、なんまんメートルもの上空クルクル回る「界」の字型人工衛星のシッポに梅の香匂う、ウレシイ春がやって参りました。此頃の夕暮れ時などは、西の空から東の空にかけて惑イ線(★)が渡っていて何とも覚束ない気分になるものです。そんな或る日の夕べ、町ハズレの空地でフシギな野外公演が有りました・・・・・・・三千mはある氷の山が溶け出すと、中から五色の錆とフジツボがびっしり付けた火の見櫓が姿を現わします。てっぺん、アンテナの上では雪の積った屋根型のスカートはいた踊り子が瓦を散らしながらチキユゴマの様に回っています。丸卓袱台製の車輪唸らせて流線型畳貼りの機関車が通過したトタン火の見櫓の手摺から味付海苔で出来た翅パタパタさせて、硝子髭の紳士がトビオリます。モンノスゴイ墜落音と共に全ての舞台装置が紳士の穿った穴に吸い込まれる様に消えてオシマイ。全篇数十秒の短い公演でした。次回公演はチキユの真裏、サンパウロ市内の空地で行なうそうです。帰りに売店で、始めてなのにイツカドコカで食べた様な気がする平ぺたい麺を食べました。既視麺というタベモノだそうです。

★惑イ線=水平線や地平線の様に境界をくっきり区切るモノではなく、光に於ける波と粒や、夕方と夜の様に分ち難くアイマイなモノにかかる線。キャンプハイヤで良く唄う♪トーキヤマニヒハオチテー♪で始まる♪イザヤタノシマドイセンー♪がコレ。

「新劇」1991ネン5月号より

ツユノアト

 六月ともなると、イロイロな型のネオンサインが夕刻の町を涼しく飾り、「ジスマーク」の様なヨコガオの少年が、少し汗ばむマッチロイ半ソデシャツ着て行き交います。亜細亜大陸は揚子江辺りで発生した低気圧が次から次へと行列してコチラの方にやって来るのも丁度今頃、春雨といえばノドカで、夕立ちといえば心地良くアキノアメはモノ淋しいモノですが、梅雨は全く鬱陶しい、ハヤクドッカイッテクレ。  でも梅雨をサカイにイロイロなイキモノが活動しだすのも確かです。庭に出てみると地の上には蟻がいます。葉の上には毛虫がいます。花には蝶やアブや蜂がいます。木の枝にはアブラムシがいます。そのソバにはソレを食べるテントウ虫がいます。野に出ると空にはトンボが飛んでいます。ツバメもいます。ヒコーキやその他の鳥も飛んでいます。田の中には蛙やタニシや気味の良くないモノがいます。ドブにはボーフラがいます。山にはケモノも住んでいます。海の中には色々の魚やプランクトンがいますし、家の中にはノミやダニやお父さんがいます。この様にコノ世には全体どれだけ沢山のイキモノがいるのでしょう。考えれば考える程ただびっくりする他有りません。いくおくねんの時を使ってこれらのモノタチがチキユの重さになってアブラやスミになっていくコトを思うと、メマイがいたします。「ドーセイッパイいるんだから」と、行列する蟻さんを踏み潰すのは「蟻型迷惑」といって慎まねばなりません。

「新劇」1991ネン6月号より

ツムジハワラウ

 オツムのてっぺんで恥かし気に渦巻いているツムジはナントナク怪しい。後頭部や臀部は鏡一枚有ればナントカ見るコトが出来るが、ツムジを見る為には鏡が二枚必要だ。というコトは、一枚目の鏡で反転したツムジが二枚目で正常に戻るちう訳で、やけに客観的なナガメというコトになる。幼い頃初めて手鏡で肛門を見た時は「ハハハ知ッテイマシタヨ」という或る種の既視感と「ジブントハコウイウモノナノダ」というソレへの連帯感、そして込み上げるイトシサを感じたモノだが、ツムジを初めて見た時は、見てはイケナイモノを見てしまった様な感じ、アケスケでロコツなヒミツを覗いてしまった様な感じがした。ソコにツキハナサレル様な不安感を覚えた。アポロ9号だかが送って来た映像で、初めてチキュウというモノを見た時もそんな感じがした。ソノ地球の図は全体が幾つもの白いツムジでおおわれている様に見えた。銀河系等島宇宙を上から(上も下もないんだケド)見ると・・・・・・の図もやはりツムジであった。そんな図を見ているとドコカにとり残された様な所在なさと奇妙な焦燥感がコミアゲル。遺伝子の二重ラセンの図や、台風の形、ネジやバネのコト思う時もそうだ。ナルト浮かんだラーメン前にした時や、バカボンの頬ぺたを思い出した時、風呂桶の栓抜いて水切れる瞬間、カトリセンコウのニヨイ嗅ぎながら朝顔のつるの巻き方について考える夏の宵、ボクはトンボの様にメマイする。

「新劇」1991ネン7月号より

八月の城

 「ヤウヤウ夏モ過ギテ秋ガ来タ。千草ニスダク蟲ノ音ヲ聞キナガラ燈火ニシタシム良イ季節ガヤッテキタ、ヤレ涼シヤ・・・・・。」炎天下にうだる真夏の真昼間、お父様は隣の自室でしきりにブツブツと旧仮名遣いでそんな風に仰しゃっています。でも決して暑さにボケなすった訳ではありません。何でもお父様の部屋の窓から入ってくる光が十ヶ月と半日遅れでしかとどかないそうで、外は未だ去年の秋の始め・・・なのだそうです・・・・。昼寝のヨダレも乾いた夕方頃、お父様の「アリャッ」という声に起こされました。「光がまたズイブン遅くなった・・・。」お父様の窓からはいつもは一里ムコウの高台に古く苔むした城跡が見えるのですが今ソコには、もうピッカピカの立派な大きなお城が建っているのです。「アソコはもう江戸だ・・・・。」違いありません、良く眼を凝らして見てみると、大小刀を携えた丁髷が行き来しています。「光が遅れてコチラに進んで来る加減で江戸時代がうんことちんこ・・・・・」え?「イヤ、うんとこちらに近付いて来たんだよ・・・・一里を二百年以上かけて此処迄来たんだ・・・・・。」・・・・・でも何かあの城ユレテイル・・・・。「あの城は一コ一コは眼に見えない位小さな素粒城という城型の粒子なんだ、ソレがもうまるでいっぱいクルクル集まってあんな大きな姿に出来上がってあるのだよ。」・・・・・ふうん・・・・。「ま、例えばワタナベジュースの素を10t位君の学校のプールにブチ込んだと思えば良いね。」・・・・へえ・・・・わかったフリして実は何が何だかサッパリわかりませんでした。オシマイ★

「新劇」1991ネン8月号より

フレアーの極地

 最近ではオーロラが、隣近所の空にも観られる様になりました。夏の夕涼み、早目の銭湯から帰って晩御飯を待つ間、涼風の縁側にシャガンで一服し、ムコウ町ギザギザ屋根の工場の上にユラユラ揺れている見るもまばゆき赤、青、黄のいろいろの色の光線をながめるのは、ほんとうに気持ちの良いものです。テンカフンくさい手でちめったい緑色のレモネの壜を握って透かして観れば、小ちゃな泡頭の貴婦人達が、スカアトのフレアー拡げて踊っています。そもそもオーロラってば、北光とか極光ともいって北極や南極に近い地方に現われる気象上の一現象です。絶えず空中で上下若しくは左右に動く緑色を交じえた光煌めく半円で、屏風を立てたように、簾を垂れたように光彩を放ちます。太陽の黒点が多く現われる時期は、オーロラも多いと言われますが、確かに最近の太陽は黒点が増え過ぎて、程んど真黒です。此んなに昼の薄暗い夏は初めてだ、と隣のオヤジも言ってました。太陽から発散する電子が地球磁気の極に導かれて、大気の高層で放電するのがオーロラなのだそうですが、と言う事は、最早此の辺一体が極地になってしまったと言う事でしょうか。そう言えば、近所の郵便極の極員は、黒の蝶ネクタイしたペンギンばかりですし、薬極の薬剤師は、どうも白クマに見えて仕様が有りません。放送極の電波にはゴマフアザラシの姿ばかりが目立ちます。夏だというのに町中にカキ氷等氷があふれているのもきっとそのせいでしょう。

「新劇」1991ネン9月号より

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