KUDAN Project

真夜中の弥次さん喜多さん
review

『ヨミカエルヤジキタ』 ウニタモミイチ

これは、ウニタモミイチさんにご寄稿いただき、
二人芝居『真夜中の弥次さん喜多さん』
大阪・名古屋公演(2005年3月)パンフレットに
掲載された作品解説です。

「“未知”なるものを“既知”の内に」ブルトンはかつてそう宣言した。それ以前、“未知”は“既知”という名の合理的常識の外に置かれ「“既知”外=キチガイ」扱いされてきた。そんな、狂気や夢や無意識などの非合理的なるものを“既知”の枠内に取り入れ、「それどころか“既知”の中に“未知”を求め、より強度な“未知”の光明によって“既知”を再び輝かそうとする」のがシュルレアリスム運動の理念だったと巌谷國士は述べている。それは芸術によって“世界を読み換える”試みだ。そのための技術を、例えばシュルレアリストたちは夢や無意識の作法に求めた。また、その延長上でエルンストなどは、異質のオブジェを接近させ新鮮な想像力を喚起させる「コラージュ」という技法に己れの活路を見出したりもした。

そんなことを踏まえつつ、ここで意識の舵を大きく切って、天野天街という一人の演劇人に思いを馳せてみる。なぜなら彼もまた、シュルレアリストよろしく夢や無意識の作法に則り、演劇という表現形式を通じて、世界の読み換えを試み続けてきた芸術家だからだ。しかも彼は、エルンストも顔負けの、当代随一のコラージュ屋である。

が、これは、彼が芝居のチラシを自ら切り貼りで作成しているという事実のみを以て、そう称するのではない。彼において舞台作品(時には映像作品)の創造とは、世界を切り貼りすることと同義なのだ。彼はまず、宇宙の森羅万象を細かく切り刻む。そこでは言葉や時間でさえ、まるでジグソーパズルの1ピース1ピースのように、すべて等価のオブジェとして切り出されることとなる。そのうえで、それらを予測不能な(とはいえ、実は夢や無意識の作法に則った)配列・組合せで貼り込んでゆくのだ。その結果、再構築されたジグソーは元の絵柄からかけ離れた異貌を現出せしめ観客を驚愕させる。しかも、それでいて、原形において潜在化されていた何か本質的な性質が、むしろくっきりと顕在化されることもある。それが天野流演劇秘法十七番なのだ。

実際に「シュルレアリスム芸術のコラージュのやり方と同じだけど、明らかにとんでもなく違うものが出会った時に立ちのぼる、ある本質に近い何か……。それがホノ見えた時の楽しさが出せればいい」(演劇雑誌「劇の宇宙」より)と語る天野。その切り貼りに向かう態度は、もはや職人芸の域を超えてパラノイアック(偏執狂的)ですらある。まるで遺伝子を組み換えるような細かい手つきで世界を読み換えてゆく様は、偏執狂的編集狂とでも呼んでしまいたい(映画『トワイライツ』以降、その傾向はより強まった)。

そんな天野が脚本と演出を担当し、小熊ヒデジ寺十吾が二人芝居をおこなう座組が、KUDAN Projectだ。その名の示すように元々『くだんの件』という芝居を上演するために組まれたプロジェクトである。『くだんの件』は最初、キコリの会というユニット名義で95年に初演が行われ、98年以降はKUDAN Projectとして日本国内はもとより、台北・香港・北京などアジアの諸都市にて再演を重ねてきた。“くだん”とは半牛半人の姿で、時折人里に現れては災厄を招来するという空想上の動物である。天野はそれをモチーフに得意のコラージュ技法を縦横に駆使、可笑しくも禍々しき幻想譚を紡ぎ上げた。そこに登場するのは二人の男、ヒトシとタロウ。彼らは、起きているのか寝ているのか、生きているのか死んでいるのか定かでない。今がいつで此処はどこなのか、この世界が現実なのか夢なのか、もう何もかもが非決定の中に彼らは居る。こうして世界は、あたかも点滅する有機交流電燈のようにその所在を絶えず揺らめかせながら、やがて消滅してゆく……。

『くだんの件』という演劇がそんな幻想的ヴィジョンを示したのと同じ時期に、実はコミックの領域においても同じ趣の作品が生まれつつあった。

しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』である(「COMICアレ!」にて96年〜97年に連載)。この漫画は、今から約二百年前に十返舎一九によって書かれた小説『東海道中膝栗毛』に題材を求め、さらにアメリカン・ニュー・シネマの傑作『真夜中のカウボーイ』の隠し味を忍び込ませた、“ロードムービー”ならぬ“ロードコミック”である。同作品は単行本2巻で一旦完結するが、続編の『弥次喜多 in DEEP』はその後2002年まで連載が続く大作となり、2001年には手塚治虫文化賞を受賞した(←このことをよく踏まえて今日の芝居を観ると、何かに気付くかもしれない)。

『真夜中……』において、弥次喜多はホモ関係にあり(十返舎一九の原作にもそれらしき記述はあるのだが)、さらに喜多さんは麻薬中毒患者という設定。その喜多さんを立ち直らせるために男二人のお伊勢詣り(伊勢神宮を参詣する旅)が進められる。そして「それは、過去と未来、生と死、現実と幻想(その他、あらゆる二項対立)の間を漂う壮大な旅」(高橋源一郎)として描かれる。このような、しりあがりのオリジナルな古典の読み換え作業によって「お江戸の小説の隠し秘めてきた恐ろしい認識は」「現代に解き放たれてしまった」と中沢新一は述べる(「たましいのまんが」より)。古典の中に内在していたにも拘わらず、古典というヴェールが邪魔して見過ごされてきてしまった原作の本質的な部分を、漫画という翻訳作業が現代に蘇らせたといえる。

男二人の物語。現実と幻想、生と死の有り様などが主題となるこの作品は、『くだんの件』に続く上演作品を模索していたKUDAN Projectにとっては、至近距離に躍り出た格好の題材であった。しかも、漫画に描かれた弥次と喜多の風貌は、どこか現実の寺十吾と小熊ヒデジを思わせる。かくして運命の赤い糸に導かれるがごとく、KUDAN Projectと『真夜中……』は出会い、結合する。

だが、漫画表現を演劇表現に転換させることはもちろんそう簡単なことではない。漫画ならば超現実的な旅を描くことは物理的には難しくはない。が、それを小劇場の限られた時空間において、現実の舞台装置や生身の俳優を使って効果的に上演するには色々と工夫も必要となる。いや、たとえ、それがある程度可能になるにしても、原作をただ表面的に忠実になぞるだけでは、敢えて劇化する意味などない。表現メディアの差異を踏まえながら、構造レヴェルでの“翻訳”がどれだけ可能か、そこにおいて初めて、漫画を演劇に転換させる意義が見出しうるというものだ。

しかも、コトはそれだけでは済まされない。この、しりあがり寿の原作が、江戸古典文学の世界を漫画的世界に読み換えて成功した作品であるということも忘れてはならない。それをさらに演劇的世界に読み換えた時に、古典文学と漫画の両エッセンスを共に呼び込めるようにしないことには、原作漫画の意匠に負けてしまうこととなるのである。

だが、天野天街は、これまでも澁澤龍彦小説『高丘親王航海記』鈴木翁二の漫画『マッチ一本ノ話』という異ジャンル原作の舞台化を手掛けて来ている。いずれも旅と幻想に深く係わる内容で、天野はこれまで述べたような独自のコラージュ的作法を用いて、原作のもつ本質的味わいをいささかも損ねずに己れの作品世界への読み換えを見事に成功させてきたのである。そうした経験があるうえに、今回は前述のとおり、幸いにも『くだんの件』と『真夜中……』の両作品を形成する世界構造に共通性を見出すことも難しくないのだ。となれば、天野天街としては、水を得た魚も同然。いや、ホウレン草を得たポパイとでも言おうか。今回、世界の読み換えにおいて、彼は本領発揮以上の凄味を見せつけるのだ。

まずは例によって、天野は漫画原作をとことん使えるパーツ単位に解体したうえで、その素材で『くだんの件』のような構造へと、『真夜中……』を再構築してゆく。ただ、『くだんの件』と違い、『真夜中……』は壮大なるロードコミックを原作とする。小劇場の限られた空間の中で、壮大な旅の距離感を、天野はどう処理するのか。

(★もし、あなたがこの文章を観劇前に読んでいるなら、この続きは観劇後にお読みください。)

……天野は、冒頭近くに映像も投入して移動イメージを凝縮して見せる以外は、大胆にもほとんど二人を旅させない。しかし、である。その代わりに、同じシーンを幾度も堂々巡り的に反復させて、その中に距離×時間をギッシリと畳み込んでみせた(この“ループ”も天野の得意技の一つ)。しかも原作の中には恰好のエピソード「ふりだしの畳」がある。天野に向かって「どうぞここをお使いください」と言わんばかりに、天野的手法に通じる部分だ。さらに、そこから「ふりだし」→降り出した→雨→川止め→進めない、というイメージの道筋を作ると同時に、喜多さんが舌を噛みきって死ぬ場面を利用して生死の往還を幾度も描く(度重なる往還の軌跡はやがて一本の長いうどんのように見えてきてしまうものだ。それこそ、現代イギリス画家フランシス・ベーコンによる人物肖像画があたかも“ベーコン”状に描かれたように)といった塩梅なのだ。そうそう、塩梅といえば、塩梅(しおうめ)=梅干が『くだんの件』の遺物のように登場し、やがて先述した舌とセットになって「しおうめました」=「死を埋めました」という忌まわしいメッセージを導きだす時、わたしたちは『真夜中……』が、漫画原作も、芝居のほうも、随所に“死”が埋め込まれていることに改めて気付かされ、ドキッとさせられてしまったはずだ。

この作品は生と死を繋ぐ通底器として、生死の間を幾度も往還させる。このように黄泉還ることで、世界を読み換えることができ、古典のエッセンスも蘇るのだ。そして、事は生死にとどまらない。『くだんの件』の時はピザが出前されたが、今回は別のものが出前されたことであろう。その時、虚構世界と現実世界が繋がり、また、演劇という名の“必然”のシナリオと、出前という名の“偶然”のシナリオが邂逅した。このように、あらゆる二項対立を繋ぐ想像力こそが世界を読み換える。

境界線のない世界をイマジンしてみよう。夢と現実が融合し、弥次と喜多もウドンのように繋がり、漫画と演劇も、“既知”と“未知”も、人と牛も、次々に連結の回路が見出され、その道のうえを演者と観客が一体となって観念のタンゴを踊りながら突き進んでゆく……。そんな想像力の源にあるものを、果たして人は「狂気」と呼ぶのだろうか、それとも「愛」と呼ぶのだろうか。はたまた「狂気の愛」とでも呼ぶべきなのか。

追記;しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』は、宮藤官九郎によって映画化もされた。今度は、その漫画が映画という表現媒体にどのように翻訳されるのか、今回の演劇版と比較しながら鑑賞するのも一興というものであろう(ちなみに、宮藤官九郎の所属する劇団主宰者もまた、最近、漫画を原作とする映画を作ったわけで、興味深い比較研究の材料があちこちに転がっている今日このごろといえよう)。

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